「開いた窓を開く絵画」|text=伊藤結希  初出=二人展『Beyond the Frame』城田圭介×那須佐和子(2023年2月)※「うららか絵画際」より


開いた窓を開く絵画

 

 

 

絵画の閉鎖的かつ限定的な空間を超えようとする試み自体は決して目新しいものではない。例えば三本のゆるやかなカーブがキャンバスを切り裂き、絵画空間と現実空間を接続させたように。あるいは、支持体の形と描かれる形態を一致させることで、画面を縁取る枠の概念を無効化したシェイプト・キャンバスのように。これまで先人たちは様々な方法を編み出し、有限の画面で表現せざるをえない絵画の制約を超えてきた。

 

では、城田と那須の「フレームを超える」アプローチは一体何が新しいのか。先に挙げた例は無対象絵画だが、本展で展示した二人の作品はすべて風景画だ。それらの作品で絵画画面を規定するフレームは、アルベルティが外の景色を四角く切り取る<開いた窓>に絵画をなぞらえたような、一種の窓枠として機能している。しかしながら、『絵画論』における<開いた窓>は、あたかも窓の外を見るような再現性のある絵画を描くべしという指南であって、窓の内と外の関係性(=作品画面内の空間と外部の現実空間の関係)は全く想定されていない。城田と那須の作品は、壁に掛ける窓としての風景画の形式を保ちつつも、鑑賞者が窓を通して世界を見る際の窓の内と外の関係に一石を投じているように思えるのだ。

 

オートフォーカスで撮影したスナップ写真のフレームに収められなかった景色の続きを想像で描く城田の風景画は、文字通りの意味で窓を大きくする操作だ。初期の代表的なシリーズ「A sense of distance」において、ほぼ画面中央に配置された一枚の写真を基点にキャンバスのフレームへと拡大した窓と対面するとき、鑑賞者はキャンバスのフレーム外にも景色が続く遠心的な性質を感じ、窓枠外にも存在するであろう世界に意識を向ける。また、数年前から始まった新たなシリーズ「Out of the frame」では、初期の実践を引き継ぎつつ、フレームの描写限界性をテーマにしている。新シリーズでとりわけ面白いのは、写真の配置や扱い方だ。複数の写真をコラージュすることで、潜在的に数多の異なる時間とパースペクティブが存在していることを一つの絵画空間内で示すだけでなく、L版写真のサイズで作られた空白のフレームを残すこと(=写真の不在)によって、まさにその位置その画角で撮影されていたかもしれない景色の可能性を鑑賞者に強く訴えかける。城田の作品は、現実の視覚的再現性が担保された写真を<開いた窓>として用いながら、窓の外に確かに存在しているはずの景色をペインティングというある意味恣意的な方法で描き、同時に描かないことによっても表現しているのである。

 

一方、那須は<開いた窓>としての風景画を多かれ少なかれ意識して制作していると思われる。というのも、彼女の風景画には共通して、フレームの在りか、つまり絵画がどこから始まりどこで終わるのかを曖昧にする性質が含まれているからだ。ノスタルジーを感じる繊細な色で大地と空が分けられた架空の風景。そして、中央とキャンバスの際(きわ)には彩度の高い色の帯が施されている。中央のラインは大地と空のちょうど境にあり、空の色が変わるグラデーションのようにも、あるいはキャンバス際(きわ)に描かれた帯と同色であることを勘案すれば、窓の桟のようにも思える。昨今使い始めたというパールの顔料が、見る位置により偏光してキラキラと輝くことで、こうした境界をさらに不確かなものにしている。那須の作品において、鑑賞者はもはや画家が決めた大きさと景色の窓を覗くのではなく、任意の窓から風景を見ることができるのだ。極め付けは、キャンバスから大きくはみ出す外付けの木製フレームである。本来は非物質的な境界であるはずのフレームをあえて物質として現前させるツイストが興味深い。この皮肉めいた、しかしある意味で非常に単純な操作が、本来<開いた窓>として特別視される傾向にある四角いキャンバスのフレームを現実世界に存在する普遍的な線へと変換させるのだ。

 

このように、城田は写真の現実再現性と対象の模倣・再現性に依拠しなくなって久しい絵画を組み合わせることによって、そして那須はフレームの所在を巧みに操ることによって、<開いた窓>としての絵画をさらに開くのである。二人の風景画は方法こそ異なるが、絵画という窓を通じて鑑賞者が見るそのあり方を変える作品だといえるだろう。

 

 

 

伊藤結希(いとう・ゆうき)

東京都出身。多摩美術大学美術学部芸術学科卒業後、東京藝術大学大学院芸術学専攻修了。草間彌生美術館の学芸員を経て、現在はフリーランスで執筆やキュレーションを行なっている。